kanokolog

読書とラテンアメリカが好き。

おばさんになって、自分の身の程がわかって楽になった話

灰色のベンチの上に黄色い落ち葉がたくさん落ちている写真

 

私も中年になりまして、できないことが増えてきました。体力は落ちたし、気力も続かないし、あとね、名前がぱっと出てこない。「あーあれよ、あれ」といって思い出せないこともよくあります。

 

でも、できないが増えたことはネガティブなことではありませんでした。自分の限界が知れた、限界を悟ったという感覚があって、かえって楽になったようにも思えます。

 

おばさんになって身の丈、いいえ、身の程といっていいでしょう。飾りもしない飾れもしない等身大の自分がわかって楽になったこと、書いてみたいと思います。

 

 

オシャレから身だしなみへ・「失礼ではない」が目標に

これでも、若い頃にはファッション雑誌を毎月購読していたのですよ。春には春らしいカラーを、秋には秋のニュアンスを参考にして洋服や化粧品を選んでみたりしておりました。

 

だけど正直に申し上げれば、「その労力に見合った効果は得られなかった」。もともと容姿に恵まれた人間でもありませんしね。流行のスタイルが似合っていたかというと、そんなことはない。

 

センスもないのですよ。美に対する感覚も決して鋭くはない。血のにじむような努力をしてでも美しく、といった感覚は結局持てないままでした。

 

そんな自分の身の程を知った今は、洋服も化粧も、「お会いする相手の方に失礼でないこと」を目標にしています。清潔で季節外れではない服と、適度に健康的に見える程度の化粧と。要するに「身だしなみを整える」程度で済ませるようになりました。

 

無理をしない人付き合い・疲れる人間関係を抱えなくなった

人を許せるようになった

若い頃には他人の欠点がやたらと目につくことがありました。欠点を直してほしい。そんな傲慢なことまで考えていた時期があったのですよ。若いって怖いですよね。

 

でも今は、人はいろいろ、合わない人も、わかり合えない人もいるのだということが身に染みて理解できるようになりました。

 

自分もそうですしね。自分も、気が短くてだらしなくて、そういう欠点を未だに直すことなんてできていませんもの。

 

生まれ持っての性質もあれば、人生の中で身に着けてきた、見に着けざるを得なかったものもあるのでしょう。そういうものにいちいち目くじらを立てていても仕方がない。わかり合えない人とは距離を置くのがベターだし、置けない場合はそこには触れない。触れずに付き合っていくことも大事なのだと、やっとわかってきたところです。

 

すべての人に好かれることは不可能であると気づいた

自分にだって好き嫌いはありますからね。相手の人が私を嫌いであっても仕方がない。

 

以前はそれなりに、相手にどう思われているかを気にすることもあったし、なるべく好かれたいと思って努力することもありました。でも、合わないものは仕方がない。

 

まあ、身近なところでは義母なんですけど、言いたいことを言うようになりました。

 

義母は兄弟が多いおうちの末っ子でしてね。甘やかされることに慣れているものですから、ヨメの私にも「誕生日プレゼントは一眼レフが欲しい」などと言ってくるのですよ。昔は無理をしてでも……などと思っていましたが、最近は「あーそりゃ私も欲しいっスわー」などと流すようにしています。

 

付き合ってたら身がもたん。同時に、関係を切れる相手でもないですから、言いたいことは言って風を通しをよくすることが大事かな、と。

 

それでも問題なくやってますから、きっとこれでいいんです。いいんでしょう。

 

「一生モノ」の縛りから解放された・そのときどきを楽しむ

「一生モノ」この言葉の魔力のすさまじさよ。

 

若い頃にはなんとなく、「質のいいものを買って一生使う」ということに魅力を感じていたのですね。ですので、ちょっと背伸びをして本革の重たいバッグなんかを買っていました。

 

でもやっぱり、普段使いには軽いバッグが一番です。雨の日にも気を遣うし。

 

もちろん、ちゃんとしたブランドのものを買って、手入れをしながら長く使うというのは素敵なことだと思います。

 

だけど私にはそんなご縁はありませんで、あの頃買った皮のバッグは擦り切れて、デザインも流行遅れになってしまいました。だったら、あんなに気負わず、もっと自由に、そのときかわいいと思えたものを買ってもよかったんじゃないかな。今はそう考えるのです。

 

もし「一生モノ」を買うなら、私の場合はですが、中年になった今がいいのかもしれない。自分の好みも安定してきた今なら、ずっと愛用できるものを選べるのかもしれません。若い頃には難しかったよ。

 

そぎ落としたら好きなものだけ残った

昔の自分は、周りに合わせることが一番だと思っていました。話題のテレビドラマを見たり、漫画も女性向けのものだったり、そういうことをしていたのですね。

 

そういう時代でもありました。今のように、映画もドラマも多様なものではありません。でも、それが当たり前だと思っていました。

 

でもだんだんと、そうやって同じ流行を楽しんでいた友達とも少しの距離ができてきて、自分ひとりの時間ができると、「実はそういうことは楽しくなかった」と気づくようになったのです。

 

疎遠になったわけではないんですよ。でも、それぞれ家族を持つようになると、昔のように徹夜でカラオケというわけにはいかなくなった、そういうことですけども、隙間は確かにできたのです。

 

その隙間で、本当に自分が楽しいことって何だと考えると、若い頃とは違ったものが見えてきます。本を読んだり野菜を育てたり、あと、私は布が好きなので、さらしを買って使ってみたり、万人受けはしないかもしれないが自分が楽しいことに時間を使えるようになりました。

 

そして、ラテンアメリカですね。身軽に旅に出るといったことは、当面できそうにもありませんが、読みたい本が山ほどある。これこそまさに万人受けせず、人にも共感してもらいづらい「趣味」になりそうですが、これからはここに時間を使っていきたいです。

 

まとめ

先日「みんなと同じことができない人は、自分の器の大きさを人より早く知っただけかもしれない」という記事を書きました。が、他者のこととして書きましたので、ちょっとぼやけた感があります。

 

改めて自分のこととして考えてみると、私は若い頃にはずいぶんと背伸びをしていたようでした。自分の器、つまり身の程、身の丈を越えて「世間ウケする何者か」になろうとしていたような気がするのです。

 

幸運なことに、私には背伸びをするだけの余力がありました。背伸びをして経験したことが無駄だとは思いません。でも、中年になって余力がなくなって、できることしかできなくなった今はとても楽で快適。そういう実感があります。

 

おばさんになってようやく知った自分の身の程。ここを大切にしながら、楽に暮らしていきたいと思います。